“問いストーリー” ~なぜなぜ期の子供との付き合い方について


■3才娘の「なんでなんで?」に疲れはてる

娘が間もなく4歳になろうとしておりますが、この一年は娘の「なんで?」に困り、疲れ果てる毎日で、まさに箸が転んでも「なんで」な年頃。
わが子の疑問にはできるだけ答えようと奮励努力してまいりましたが、ガトリングガンのように浴びせられる「なんで」にアラフォーの悲しき体力では抗しきれず、早く終わらせたい一心で、

「神様がそうつくったんだよ」

「そういうルールなの」

「なんでだろうねぇ」

などと、人智を超えた存在にすがる始末です。


「なんでだと思う?」

と逆に質問をすることもいっとき効果がありましたが、敵もさるもの

「わからないから聞いてるんですけどー」

とクロスカウンターを喰らっております。


娘の「なんで?」は大別すると2つあって、
1つは、知っていればすぐ答えられるもの、及び知らなくても調べれば答えられるもの。
もう1つは、答えがその一種類とは限らないような、答えが出しにくいものです。

答えに困る、窮するのは後者の問いで、3才児だからといって適当に答えたくないですが、かといって3才児にわかるよう機智に富み、かみくだいた説明をする才にも乏しき身です。
答えてあげたい気持ちと3歳児に何でそこまで、という情熱と怠惰の間をモヤモヤとしたきもちを抱えながら、イケてる答えを返してくれない父に失望して、いつしか私と話してくれなくなるであろう未来に恐れおののいている次第であります。


■哲学対話、こども哲学にヒントを求める

そんな折、私淑する安斎勇樹先生が開催される『哲学対話から学ぶ、問いをデザインする技法』というイベントがあることを知りました。
本イベントは「問いをデザインする技法を探る」プロジェクトの一環で行われた公開研究会ですが、本回が『哲学対話』、『こども哲学』という活動を中学、高校で行われている土屋陽介先生と神戸和佳子さんがゲストとして参加されることから、上述の悩みを解決するヒントを得られるのではないかと聴講した次第です。

このイベントに参加するにあたって、知りたい、質問したいと思ったのは以下のことです。

・問いのデザインには2種類ある(たぶん)。
・一つは最初に発する問いをどう発するかというもの。
・もう一つは、その問いにどう対応して、答えを見つけていくかというもの。
・どちらかというと、前者よりも後者の「問いと答えの過程」の技法について知りたい。

娘の問いにいかに答えていくか。
娘との対話の中で、望ましい(かどうがわからないが)答えを得ていくための方法を知りたいと思ったわけです。


■得たものは、子供の問いに対する態度のようなもの

イベントでは土屋先生、神戸先生の実践の中から哲学対話を実施するための教材の選び方、ファシリテーションやグルーピングの方法、授業で実施した場合の評価方法などが紹介されました。
このあたりの情報は関係者やイベントに参加された方のブログ等に詳しいと思いますのでここでは割愛し、イベントでの発言の中でこれはと感じた発言を下記にまとめます。
(イベント終了後当日の講演資料が共有される予定だったのですが、時間の都合で途中退席したため、ググってみて下さいませ)

・哲学対話は結論ありきではない。答えが必ずしもあるものではない。
・それゆえ参加者はモヤモヤした気持ちを抱えるが、それは「おみやげ」と呼んでいる。
・哲学対話の評価指標として(ヨーロッパ等では)「よく考えるようになったか」「人の意見を聞けるようになったか」という項目がある。
・考えるということは一人やるものと思われているが、考えるのは一人では限界がある。
・他者に質問されることで自分が気づいていなかったことに気づいたり、自分自身を再発見できることがある。
・なんでを止めないのが哲学の意味である。
・哲学対話は“表現のうまさ”のある人じゃなくても考えを深めることができる。
・これまでの前提、枠組みをはずして考えられるのが哲学対話の特長。

娘の問いへの対応について私が感じていたモヤモヤは、親としての義務感のようなものから生じているのかと思っていたのですが、本イベントでの先生方のお話やテーブルで一緒になった参加者の皆さんとの対話を通じて深掘っていくと、

「自分で物事を考えられる人間になってほしい」

という私の願いから生じていたのだと気が付きました。
(まさに他者に質問されることで自分が気づいていなかったことに気づいたり、自分自身を再発見できることがある―との言葉通りです)

自分の頭で考えられるようになるには、問いを立てられるようになることが出発点で、問いを立てるには好奇心や疑問を持つこころが原材料になるでしょう。
幼少期はそうした原材料が溢れ替えるほどに豊富で、それが「なんでなんで」に形を変えて湧き出ています。
年を重ねるにつれこの原材料は乏しくなっていくため、そうした時でも人為的に問いを立てられるようにする習慣を身に着けさせたかった。だからできるだけ娘の問いに答えようと肩に力が入っていたのだと思います。
(とりあえず、子供に自分で考えられるようになってほしいと願う身としては、「神様が~」だけは止めよう。。)

そしてもう一つ大事な気づきは、娘の「問いへの態度」のようなものです。

イベントの最後に質疑応答の時間があり、安斎先生から両先生への「哲学対話を始めた頃と最近を振り返って変わったことは何か?」という質問に対する答えとして印象的だったのが下記でした。

・(先生自身が)子供が問いに答えたり問いを発することを待てるようになった。
・当初は場を仕切ろうとしまったり、わかったような結論を出したくなることがあったが、今は待てる。

安斎のこの問いこそが「良き問い」になって、両先生もふだん考えておられなかった答えが引き出されたように感じるのですが、こうしたお話を拝聴していて得られたのは、娘の問いに対する技法というよりは、「問いへの態度」のようなものでした。

問いを待つ。
問いを見守る。
問いに付き合う。
問いをいっしょに育てる。

知識として答えられる問いは、すぐに答えればいいと思います。
一方、答えが出しにくい、その場、その年齢では理解しにくいものには、わかったような結論を出してその場で終わらせるのではなく、答えにくければ答えにくいで、「ちょっとその問いはこれからのお楽しみに置いておこう」というくらいの気持ちで、成長していく中で折にふれその問いに付き合っていけばいいのではないかと思いました。

そうした“問いストーリー”を娘といっしょにつむいでいけば良いのだと。

・・・

・・・・・・・・・・最後、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どうしても、このダジャレを言いたかった。。



以下は安斎先生関連のエントリーです。よろしければご覧下さい。

「明日、ワークショップを企画できますか?」

「子どもの学びを生み出すシカケ」レポートと感想

このブログの人気の投稿

オラリティとリテラシー。~子どもが世界を知る二つの経路

著者が解説『プ譜』とは何か?概要とテンプレートを紹介します(動画あり)

高崎線の四人ボックス席で帰るプロジェクト 後編