子どもは「編集」の天使です

中小企業やベンチャーといった“プロンビチャのプロマネ”を10年やってきて、プロジェクトマネジメントという未知への取組においては、「マネジメントしていくのは難しい」と感じ続けてきましたが、なんだか最近は「マネジメントも大事だけど、プロジェクトの現場で遭遇する出来事を、いかに条件や環境に応じてエディティングしていくことが、プロジェクトの成否を分けるんじゃないか」といったことを考えています。

「マネジメント=管理」と「エディティング=編集」。

「プロジェクトエディティング」という手法があるんじゃないか、とか。

そんな考えがこの一年くらいのプロマネ体験の中で大きくなってきたので、編集というものを学ぶべく、イシス編集というところで4カ月ほど編集の勉強をしていました。

で、イシス編集学校での体験と、並行する4歳娘の育児生活の中で、子どもは「ナチュラルボーンエディター」というか、編集の天使だなぁと感じることが多々あったので、メモっておきたいと思います。

私には2011年生まれの娘がいます。
娘の成長に付き合いながら、イシス編集学校のお題をこなして実感したのは、子どもは編集の天使だなぁということです。

この天使は編集学校のお題に取り組む上で、実に様々な気づきをもたらしてくれます。

この天使は「関係性の発見」、「らしさをつかむ」ことに天性の力を持っています。

その力が、大人があっと驚く「見立て」やネーミングとなって現れます。

それがある時は編集学校のお題に取り組む上での助けとなり。
ある時はお題から娘の行動や言動の意味に気づいたり。
娘も交えての稽古が、私の編集学校の受講体験をいっそう豊かなものにしてくれました。


まずは天使の見立てについて紹介しましょう。

娘は「ケーブルつきのマウス」を「聴診器」に見立てて遊びます。

マウスを紛失すると、「ままごと用のナベブタ」を「聴診器」に見立てました。

横に倒れたペットボトルの上に、正方形のブロックを一つ置いてきゅるきゅる回し、「おみず、ジャー」と水道に見立てました。



娘のこうした行為は、編集学校の稽古をする時に思い起こされ、回答をアシストしてくれました。
当時は、

「どうしてそんな発想ができるんだろう?」

「娘、天才か!?」

と思いたくなるのを自制しておりましたが、稽古を通じて、大人が情報を「機能」「要素」「属性」に分けることで、らしさをつかまえやすくしようとするのに対し、子どもはそれを先天的に見につけているのだ、ということに気づくことができました。


天使の力はネーミングにも現れます。

娘には「ほじける」という単語があります。

これは、タコ糸や毛糸が「ほつれてぐちゃぐちゃになった状態から少しずつほどけていく状態」を現そうと娘が言った言葉です。

どこかで聞いた「ほつれる」と「ほどける」がごっちゃになって「ほじける」になったのでしょうが、これなども物事や状況のらしさを既存の言葉よりもつかんでいるように思います。

次にご紹介するのは「ラベリング・トラベリング」の稽古の前後に起きた出来事です。
先日、食事中うっかりご飯をこぼしてしまった私に、娘が

「はずかしいおとな・・・」

と、言いいました。

これは、「わたし(※娘のこと)はこども」で、「パパはおとな」というラベリングができていたのと、
かつ、当時3歳の娘がごはん中によそ見をして食べるせいでポロポロこぼすのを、
「恥ずかしいからやめなさい」と注意したのがキッカケで作られた言葉だと思います。

「はずかしいおとな」と言われた私は、自分のしでかした行為以上に恥ずかしく感じられ、同時に一種のコピーのように響きました。
その後、ふと気が付き「恥ずかしい大人」とググると、普通に使われていた言葉で、格別めずらしいものではないと親バカ状態から醒めたのですが、
その言葉を言い放った過程を考えると、私にはたまらなく感じられました。


親バカついでにもう一つネーミングの例を挙げると、「えほんしんぶん」というものがあります。


これも、当時3歳だった娘が、新聞を読んでいた私の隣に絵本を持ってきてちょことん座るので、
「なにしてるの?」と聞くと、
「えほんしんぶん、よんでるんだよ」と答えました。

この言葉にも私はグッときて、それから親バカ全開で「えほんしんぶん」のプロトタイプをつくってみました。
「絵本インターフェースの新聞風なのか」「新聞インターフェースの絵本風なのか」といったデザイン上のことから、
「3歳児にとってニュースって何なんだろう?」とか、「3歳児にとっての新聞の意義って何なのか?」という根本的な話まで、一生懸命考えました。
「えほん」と「しんぶん」という一見いっしょにならなそうな言葉が一つになって、新しいコンテンツを生んだのです。
(親バカです。自覚してます。)


ここまで散々親バカを披露して参りましたが、
子どもが編集の天使だと思うのは、大人の牡蠣殻のようになってしまったイメージサークルやシソーラスが子どもにはまだ存在せず、あらゆる言葉や体験が牡蠣殻のついていないまっさらな状態であること。
それと表裏一体である語彙の不足。そしてそれらを遊びの中で体験していることこそが、子どもを編集の天使たらしめているのだと思います。

これはまさに「編集は遊びから生まれる」「編集は不足から生まれる」「編集は連想である」に該当することなのではないでしょうか。


子どもが大人になっていく上で身につけてきた物事が足かせになり、
そこから自由になるために編集工学を学んだりするのは何と不自由なことかと苦笑してしまいますが、それは人間が生きていく上では不可避なことです。
そうしたことを理解した上で、親がいかにして子どもと関わっていけばいいのかは難しい問いですが、これは私自身の『問いストーリー』として、これから考えていきたいと思う次第であります。

以上、親バカが最前線からお伝え致しました。

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