「みる」と「やる」、「わかる」。
芝生に水をやるのと、芝生にはえた雑草とりが朝の日課です。
芝生にはえる雑草にはいくつか種類があって、写真のようなタイプは抜きやすい。
でも、モノによっては根が細いのに、芝生とひっからまって、うっかりすると芝まで抜いてしまう。
そんな状態のものを見ると、「これは根が深いなぁ」と思います。
この「根が深い、根深い」という言葉は、転じて「原因や根拠などが深いところにある」という意味で使われます。普段はこちらの意味で使うことの方が多いでしょう。
こちらの意味の「根が深い」は、抽象的になっている部分、それを使用する「根が深いレベル」は人それぞれで、
Bさんから見れば何てことのな話でも、Aさんからすれば根が深く感じたりします。
言い換えれば、「こういう状況でなければ、根が深いとは言(え)わない」という絶対的なルール・約束事がありません。
私たちはこうした抽象的な言葉を人との会話、書籍やテレビなどから摂取し、なんとなくわかって使っています。
でも、それはその言葉が持つ本来の意味合いを理解して使うのと、そうでない場合に使うのとでは、おいそれと使わなくなるというか、言葉の重みというものがちがってくる気がします。
今回、「根が深い」という状態を体験したことで、
「あぁ、こういう意味か。こんなに複雑なのだ。まっすぐただ深いわけではなく、他の植物の根と絡まったり、石に引っかかったりするのだ」
とあらためて、わかりました。
見聞きしただけでわかっていたつもりになって使っていた言葉を、その語源を身体を通してわかりなおしたのです。
この写真のような状態が、本来の語源であるかどうかまではわかりませんが、ここで話題にしたいのは、「わかる」ということはフィジカルなものも多く含んでいて、フィジカルな体験を通してわかったものの方が、理解の深さや記憶への重みが変わってくるのではないかということです。
すこし話は変わりますが、先日アーネ(5才)と磁石ボードに字を書いて遊んでおりましたら、ふいに私が手にしている磁石ボードの裏側に回り込んで、
「ワケがわかった!!」
と叫びました。
磁石ボードは先端に磁石のついたペンで、白いボードの下にある磁性の粒子をひきつけて絵を描く動画ですが、表面は白一色なのに対して、背面はこのように黒一色です。
アーネはペンをなぞると表面が黒い字や線になることと、裏面が白い字や線になることが連動しているということに気づき、詳しいことまではわからないだろうけれども、「ワケがわかった!!」と叫んだのだと思います。
一方私はといえば、原理はなんとなくわかっているけれど、その構造を見ようと自らボードをひっくり返したり、分解したりといったことはやったことがありませんでした。
芝生と磁石ボードのできごとは、中身は違えど「わかる」ということには身体性というものが重要なのではないかという示唆を与えてくれます。
スポーツでたとえるなら、「わかる」ということは、「見るスポーツ」というより、「やるスポーツ」なのではないか、と考えさせます。
もちろん、人間が直接体験をしなくても抽象的にわかることでここまで進歩・進化してきたわけですから、一つ一つの事象や概念を身体的に理解するということはしなくて良いですし、そもそも時間がいくらあっても足りません。
でも、それを体験するチャンスが目の前にあるなら、特に子どもと一緒ならば、親子で身体的にわかりにいきたいものだと考える次第であります。
以上、親バカが最前線からお伝えました。
芝生にはえる雑草にはいくつか種類があって、写真のようなタイプは抜きやすい。
でも、モノによっては根が細いのに、芝生とひっからまって、うっかりすると芝まで抜いてしまう。
そんな状態のものを見ると、「これは根が深いなぁ」と思います。
この「根が深い、根深い」という言葉は、転じて「原因や根拠などが深いところにある」という意味で使われます。普段はこちらの意味で使うことの方が多いでしょう。
こちらの意味の「根が深い」は、抽象的になっている部分、それを使用する「根が深いレベル」は人それぞれで、
Bさんから見れば何てことのな話でも、Aさんからすれば根が深く感じたりします。
言い換えれば、「こういう状況でなければ、根が深いとは言(え)わない」という絶対的なルール・約束事がありません。
私たちはこうした抽象的な言葉を人との会話、書籍やテレビなどから摂取し、なんとなくわかって使っています。
でも、それはその言葉が持つ本来の意味合いを理解して使うのと、そうでない場合に使うのとでは、おいそれと使わなくなるというか、言葉の重みというものがちがってくる気がします。
今回、「根が深い」という状態を体験したことで、
「あぁ、こういう意味か。こんなに複雑なのだ。まっすぐただ深いわけではなく、他の植物の根と絡まったり、石に引っかかったりするのだ」
とあらためて、わかりました。
見聞きしただけでわかっていたつもりになって使っていた言葉を、その語源を身体を通してわかりなおしたのです。
この写真のような状態が、本来の語源であるかどうかまではわかりませんが、ここで話題にしたいのは、「わかる」ということはフィジカルなものも多く含んでいて、フィジカルな体験を通してわかったものの方が、理解の深さや記憶への重みが変わってくるのではないかということです。
すこし話は変わりますが、先日アーネ(5才)と磁石ボードに字を書いて遊んでおりましたら、ふいに私が手にしている磁石ボードの裏側に回り込んで、
「ワケがわかった!!」
と叫びました。
磁石ボードは先端に磁石のついたペンで、白いボードの下にある磁性の粒子をひきつけて絵を描く動画ですが、表面は白一色なのに対して、背面はこのように黒一色です。
アーネはペンをなぞると表面が黒い字や線になることと、裏面が白い字や線になることが連動しているということに気づき、詳しいことまではわからないだろうけれども、「ワケがわかった!!」と叫んだのだと思います。
一方私はといえば、原理はなんとなくわかっているけれど、その構造を見ようと自らボードをひっくり返したり、分解したりといったことはやったことがありませんでした。
芝生と磁石ボードのできごとは、中身は違えど「わかる」ということには身体性というものが重要なのではないかという示唆を与えてくれます。
スポーツでたとえるなら、「わかる」ということは、「見るスポーツ」というより、「やるスポーツ」なのではないか、と考えさせます。
もちろん、人間が直接体験をしなくても抽象的にわかることでここまで進歩・進化してきたわけですから、一つ一つの事象や概念を身体的に理解するということはしなくて良いですし、そもそも時間がいくらあっても足りません。
でも、それを体験するチャンスが目の前にあるなら、特に子どもと一緒ならば、親子で身体的にわかりにいきたいものだと考える次第であります。
以上、親バカが最前線からお伝えました。